ITRONがある程度成功しだすと、いろいろな企業の方が私の所を訪ねて来るようになった。そのなかに松下電器の方がいた。お会いした途端、「先生が重要だと言っているパソコンのためのOSを作りましょう!」と言われた。「機器組込みでのITRONの重要性は理解しているし、松下も使っていく。しかしいま、松下が目指したいのは個人のためのコンピュータ。これをできればゼロから作りたい」とのこと。
私が提唱するオープンアーキテクチャへの理解も深く、コンピュータを自動車のようにしたいという構想を推し進めたいという。作っているメーカは違っても自動車ではアクセルは右でブレーキは左とか、ハンドルは丸いとかで一度運転できるようになればどの車も運転できる。こういう標準化を、力のあるメーカが力づくで推し進めるのではなく、また多数決で決めるような国際標準機関式でもなく――オープンなフォーラムが主体で進めるという構想――オープンアーキテクチャに基づくパソコンだ。
当時の松下は、まだ松下幸之助氏がご存命だったからか、決断は速く動きも素早かった。早川専務が決断してくださり、BTRONプロジェクトとして85年には開発が始まった。このときの現場のリーダであった真弓和昭氏も、また氏のスタッフの方々もやる気満々ですごい勢いで独自パソコンができあがっていく。
私としては、どうせゼロから作るなら、これからのパーソナルなコンピュータが持つべきものはすべて持たせるべき、ということで進めた。操作の統一性はもちろん、これからのコンピュータは、文字だけでなく写真や動画も扱うので、その機構とか、文字も日本語の漢字をはじめとして、英語だけでなく世界の文字の扱いも、さらにはキーボードの理想とか、ネットワーク対応とか、考えられることはすべてやろうという、かなりイノベーティブなものであった。
また、オープンということから、仲間作りにも力をいれた。これからはソフトが大事になると思い、当時少しずつ増えてきたパソコンのソフトメーカにも声を掛けた。大型機を作っているメーカのノリはあまり良くなかったが、驚いたのはIBM。評価をして、とにかく試作機まではつくると決断してくれた。そして1986年。文部省と通産省が作ったコンピュータ教育推進センター(CEC)という組織――これからはパソコン教育が必要になるとの認識から作られた標準化団体だ。そこが教育用標準パソコンとしてBTRONを検討しだした。その理由は私がロイヤリティ――つまりお金をとらないと言っていたのと、世界中のメーカが参入できるようにしていることへの評価であった。これを機会にBTRONは有名になり、続々賛同するメーカが増えていく。