当時の産業界の要求に合っていたせいかITRONは順調に広がり、この調子で応用分野をもっと広げようとか、マイクロチップそのものを早く作れとかの、うれしい反応と盛り上がりが出てきた。
1984年暮れごろからITRONについての問い合わせが急激に増えた。業界団体の中の一委員会の手をそろそろ超えそうだと思っていたとき、電子協(日本電子工業振興協会)の鈴木健専務理事に呼ばれTRONプロジェクトを推し進める新たな組織を作るべきだとの進言を受けた。
すでに富士通、日立、松下電器、日本電信電話、日本電気、沖電気、東芝、三菱電機へのネゴシエーションも終わっているとのことで、組織の名前も「TRON協議会」。会長は日立の金原和夫取締役にお願いするのが良いとのこと。産学連携の重要性を業界全体で理解いただき、独自コンピュータの開発に向けて一歩前進できた喜びで一杯であった。
正式にTRON協議会が発足したのが1986年、発足記念シンポジウムに集まってくれた方々は千人を超え、事務局の清さん、山内さんがまさかそんなに人が集まるとは、とうれしい悲鳴をあげていたのが昨日のことのようだ。
会員も100社を超え、2年後の1988年には「トロン協会」という社団法人になり、初代会長に富士通の山本卓眞社長にご就任いただくことになる。
山本社長は独自コンピュータ開発についての理解を誰よりも持っていらした方で、あらゆる援助をいただいた。他人がやらないことを独自にやることや、コンピュータがこれからの世界を変えていくことなどについて、何度も親しくお話しさせていただいた。TRONの活動の会合にも何度もいらしていただき、応援演説をしていただいたことにはいまでも感謝している。
また、この私の考えを広く知ってもらうために『TRONからの発想』という本を岩波書店から上梓したのもこのころ。多くの人にTRONは知られるようになっていく。
さて、協議会発足と同時に非常に大きな動きになったのが日本電信電話公社の通信機へのTRONの全面採用。電話交換機のための標準OSとしてTRONを、さらに交換機のための応用ソフトも合わせて開発するという一大プロジェクト。横須賀電気通信研究所の石野福弥、和佐野哲男、大南正人、大久保利一氏らの強力なリーダシップにより研究開発が凄い勢いで始まった。
このプロジェクトはCTRONプロジェクトと呼ばれわが国の通信機メーカ全てと欧米の通信機メーカも加わりTRONは世界的にも知られていくようになる。そしてその後、わが国の電子交換機はすべてCTRONベースになる。